
大宮盆栽村のある園の陳列棚に並ぶ、古い松と若い素材。世代が数十年離れていても、待っているものは同じです。Photo by Guilhem Vellut, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons — Source
2025年、東京の北にある盆栽園の集まり、大宮盆栽村(おおみやぼんさいむら)は、最初の百年を終えました。日本の盆栽の職人を、他のどの場所よりも多く育ててきた場所です。百年という時間は、この工芸がどうやって続いていくのかという問いに、一つ以上の答えを試すには十分な長さです。大宮自身の歴史には、数十年隔てて、すでに二つの答えがあります。一つはよく知られ、もう一つはほとんど忘れられています。
盆栽の次の百年を決めるのは、日本がどれだけの木を保ち続けられるかではなく、日本の中でも外でも、木を仕立てる手を育て続ける理由を持つ人が、どれだけいるかです。
国内で閉じた市場と、数十年前に開いた市場
一つ目の縮小は、すでによく記録されています。以前の記事でも書いた通り、大宮は1930年におよそ30の園を抱えていましたが、今は6園です。その理由のほとんどは国内的なものです。大きな木を置くための床の間(とこのま、"an alcove for displaying art")を備えた家が減ったこと、後継者のいないまま歳を重ねる園主、家族経営の小さな園をそのまま引き継がせることを難しくする土地や相続にまつわる費用。そのどれも、日本の人々が盆栽を愛さなくなったことを意味しません。ただ、それを置く場所を持つ人が減っただけです。
海外での広がりは新しいニュースのように読めますが、大宮自身の歴史にとっては新しいものではありません。政府の貿易統計によれば、日本の盆栽輸出額は2021年のおよそ4億9,300万円から、2023年にはおよそ9億1,700万円まで伸び、2024年には9億600万円へとやや落ち着きました。金額でもっとも大きな輸出先は中国、イタリア、オランダです。しかし、こうした貿易統計が存在するよりずっと前に、大宮で働いていたある盆栽の名人が、すでに同じ賭けにキャリアを懸けていました。大宮盆栽村の蔓青園(まんせいえん)の三代目園主だった加藤三郎(かとう さぶろう)氏は、1970年代後半から1980年代にかけて、のちに世界盆栽友好連盟(WBFF)となる組織づくりに取り組み、1989年、「盆栽を通じた世界平和(World Peace Through Bonsai)」という理念のもとにこれを設立しました。忍耐と観察に支えられたこの芸術が、世代を越えるのと同じように国境をも越えて友情を運べるはずだという確信です。同じ1989年に、加藤氏がキャリアを過ごした大宮の地で開かれた第1回世界盆栽大会には、32か国からおよそ1,200人が集まったと伝わります。盆栽が世界へ向き直ったのは、2020年代の検疫緩和から始まったわけではありません。それより40年近く前、大宮のある陳列棚のそばで、一人の生産者が、この工芸の未来の顧客は必ずしも日本に暮らしている必要はないと決めたところから始まっていました。
木は越えられなくても、技術はすでに越えている
こうした外向きの歴史があっても、より難しい半分の問題は解決しません。工芸とは技術だけでできているのではなく、その技術を実際に行う人のもとまで届く距離で、それを求める理由が必要だということです。以前の記事で書いた通り、その理由は国内では細ってきましたが、技術そのものは今も教えられる状態にあります。見落とされがちなのは、その技術自体は、すでに何十年も前から国境を越え続けているという事実です。木ではなく、人によって運ばれる形で。
ドイツ出身の盆栽作家、ヴァレンティン・ブローゼ(Valentin Brose)氏は、東京の春花園BONSAI美術館で、名人・小林國雄氏のもとに3年間弟子入りしました。これは、彼の修行を紹介する日本政府の記事によれば、1970年代から80年代にさかのぼる欧州の盆栽人気の一部だといいます。ちょうど加藤氏がWBFFの土台を築いていたのと同じ時期です。ブローゼ氏は現在、ヨーロッパ各地でワークショップを開き、ヨーロッパの愛好家を連れて日本の庭園を巡るツアーも主催しています。日本に根を張ったままの木と、そこで学んで国に帰る弟子は、同じ問題への、逆方向からの二つの答えです。一方は素材を、それが本当に属する唯一の土に留め、もう一方は、知識をすでに関心が育っている場所へと運びます。
別々にではなく、共に生き残る仕組み
この二つを並べてみると、一つの構造が見えてきます。木は、すでに慣れ親しんだ気候と土、日々の手入れの中に留まるのがもっとも良い、というのは別の記事で扱った通りです。検疫にかかる年月や書類の面から見ても、生きた盆栽を国境の向こうへ動かすことには、それだけの代償が伴います。一方、技術のほうは比較的よく越境します。ブローゼ氏のような弟子や、日本の名人のもとで学んでから海外で教える作家たちによって運ばれています。これまで確実に越境する手段を持たなかったのが、三つ目の要素です。関心がすでに育っている場所から届く、日本の園が木を育て続け、弟子を陳列棚のそばに置き続けるための、お金の裏付けを伴う理由です。
この三つ目の要素こそが、残る二つが百年後にも意味を持ち続けるかどうかを決めます。土に根を張った木と、教えられる技術は、どちらも必要ですが、どちらか一方だけでは十分ではありません。その二つをつなぐ関係を支えようとする人がいなければ、腕の立つ手と健康な木を持つ園でも、閉じてしまいます。大宮自身の園のうち、およそ24園がすでにそうなったように。
Azukariが支えようとしているもの
Azukariは、その三つ目の要素に対する一つの試みです。木は日本に留まり、作家の手入れを受け続けます。海外の持ち主は、木を動かすのではなく、季節ごとの記録を通じてその関係に加わります。それは、職人(しょくにん、"a craftsperson defined by trained hands rather than by title")と持ち主が、自分たちの代では完成を見届けられない木への責任を分かち合ってきた、昔からのやり方と同じ種類の記録です。これ単独で、閉じた園が再び開くわけでも、弟子入りの年月が短くなるわけでもありません。Azukariにできるのは、来年の春、日本のある園が、それ自体では不足しているわけではない技術を何年もかけて学ぼうとする誰かを受け入れる理由を、もう一つ増やすことです。
盆栽の第二の百年も、最初の百年と同じように、どんな報告書にも収まりきらない季節の積み重ねとして数えられていくでしょう。その結果が出るよりずっと前の今、言えることがあるとすれば、それは鉢の中の木についていつも変わらず言えてきたことです。明日も水がいる。来年も剪定がいる。そして、それを与える人が、どこかに必要だということです。
この問題の両側について詳しくは、「後継者問題という課題」と「日本の銘木盆栽、最後の世代」もあわせてお読みください。
参考リンク
- さいたま市大宮盆栽美術館「About the Omiya Bonsai Village」 — 1930年頃に約30園があり、現在は6園が残るという公式の記録。
- 大宮盆栽村「History」 — 1923年の関東大震災を経た1925年の村の創設、および加藤三郎氏が蔓青園の三代目園主として、また第1回世界盆栽大会の運営に携わったことについての記録。
- 世界盆栽友好連盟「History of WBFF」 — 加藤三郎氏らによる1989年のWBFF設立、「盆栽を通じた世界平和」という理念、第1回世界盆栽大会に32か国からおよそ1,200人が参加したことについての公式記録。
- JapanGov/Tomodachi「Enchanted by the Bonsai Universe」 — ヴァレンティン・ブローゼ氏が春花園BONSAI美術館で小林國雄氏に師事したことと、1970〜80年代にさかのぼる欧州の盆栽人気について。
- ジェトロ「輸出品目別レポート 花き(植木・盆栽)」(2025年8月更新)— 年ごと・輸出先別の盆栽輸出額。