
大宮盆栽村の歴史ある庭園のひとつ、蔓青園(まんせいえん)では、園内に育つ木の多くについて、来園者に撮影を控えるよう案内しています。理由は作品保護のためではありません。木の多くが個人の所有物だからです。水やりも針金かけも遮光も、日々の世話はすべて庭園の手で行われていますが、その木を所有しているのは、はさみを握る人とは限りません。
木を託すことは、手放すことではありません。日々の世話を誰かの手に委ねながら、その木の未来と、それを形づくる判断は、自分の手元に残しておくということです。
木の必要は、所有者の暮らす場所を超えていく
盆栽ほど、時間に対して容赦のない持ち物は多くありません。水やりの必要量は日によって変わります。日なたに置かれた木は日陰の同じ木より早く乾き、樹種や鉢の大きさ、用土によっても乾く速さは違うため、毎日の確認はたまにやる作業ではなく、手入れそのものの一部です。真夏には一日一度では足りないこともあります。この日々の注意深さがどれほど手入れの中心にあるかは、以前水やりについての記事でも書きました。
けれど、これは距離のひとつめの意味にすぎません。日本で育てられ仕立てられた盆栽は、所有者が暮らす場所へそのまま運べるわけではありません。生きた木を国境の向こうへ移すには、日本側での輸出検査と植物検疫証明書が必要で、受け入れ側でも、その国自身が定める規則――多くの場合、検疫の条件や、植物の種類によっては輸入そのものの禁止を含み、しかも予告なく変わることもある規則――に従わなければなりません。この点は「木は国境を越えられない」で詳しく扱っています。技術があり、日々の時間を割ける所有者であっても、木を暮らす場所に置いておけるとは限りません。木が必要とするものと、所有者の暮らしは、単純に別の場所にあり、どれだけ心を尽くしても、その距離だけでは埋まらないのです。
信頼は、サービスではなく人に向けられる
誰が所有し、誰が世話をするかを分けるという発想――蔓青園の所有者たちがそうしているような発想――は、この距離の問題を解くために新しく考え出されたものではありません。古くからある考え方であり、それが成り立つのは、抽象的なサービスへの信頼があるからではなく、特定の、名前のわかる作家への信頼があるからです。それはちょうど、meiboku(銘木、"歴史の記録を持つ、名を与えられた木")が、その一区間を仕立てた人の名前を伝え続けるのと同じです。この点は「盆栽の銘木」でも書きました。木を託す所有者は、木を匿名の誰かの手に預けているわけではありません。いつ針金をかけ、いつ手を止め、いつ植え替えるか。その判断を委ねられる、信頼できる一人の人を選んでいるのです。
託すことは、手放すことではない
この違いは重要です。木を託すことは、売ることや、木の行方を見失うことと混同されがちだからです。しかしそのどちらでもありません。
はさみを握るのが自分でなくなっても、所有者の手元に残るものがあります。ひとつは、木の未来を実際に形づくる判断です。いまの姿に向けて仕立て続けるかどうか、どの枝をさらに伸ばすか、次に誰の手に委ねるか。もうひとつは記録です。何が、誰によって、いつ行われたかという記録――銘木に格式を与えるのと同じkeireki(経歴、"木の手入れをたどれる記録")です。水やりの場に一度も立ち会わない所有者であっても、季節ごとにその記録へ名前を刻まれる人であり続けることはできます。
これは、「預かるという文化」で改めて取り上げる、より古い考え方に近いものです。所有することと、日々の労力をかけることは、日本を一度も離れない木にとってさえ、もともと同じものではありませんでした。木の歴史は、いつだって所有者一人の手より多くの手によって作られてきたのです。
木を託すかどうかを迷っているなら、本当に問うべきはこの一点です。自分の手で世話をしたいかどうかではなく、はさみを握らない自分が、誰の判断になら任せられるか――です。
azukeruという言葉が、すでにこれを言い表している
日本語には、この関係を言い表す平易な言葉があります。azukeru(預ける、"何かを他人の手に委ね、良い状態で――あるいは委ねたときより良い状態で――返されると信頼すること")です。玄関先に預けるコート、親戚に預ける子ども、旅行の間、隣人に預ける家の鍵。そのどれもが、しばらくの間、誰か別の人が大切に守る責任を引き受けているだけです。
何十年という時間の単位で生きる木にこの言葉を当てはめると、静かに長続きするものの姿が見えてきます。七月に水をやれず、三月に剪定できず、一月の強い霜から守れない所有者であっても、その木の物語の外に立っているわけではありません。ただ、その物語のどの部分に自分の役割を書き込むかを選んでいるだけです――手を動かす時間としてではなく、判断と記録として。
いまAzukariが預かる木のひとつに、老爺柿(ろうやがき)があります。日本を一度も離れたことのない、実をつける古木で、作家自身の庭で日々世話をされています。その所有者のもとへ季節ごとに届くのは、はさみではありません。実がついていく様子、冬の剪定、木がいつもどおりのことをしている様子――それを、遠くで暮らす誰かのために見届けた記録です。Azukariの所有者が手にしているのは、この記事がずっと語ってきた二つのもの、まだ自分の手にある選択と、木が良く保たれてきたことを示す記録であり、はさみを握り続けるのは日本にいる作家のほうです。
参考リンク
- Bonsai Empire「Watering Bonsai; how to water your trees」 — 日照や樹種、鉢の大きさ、用土によって水やりの必要量が変わること、そして毎日の確認が盆栽の手入れに欠かせない理由について。
- Bonsai Empire「Omiya Bonsai Village」 — 蔓青園が、園内の木の多くが個人所有であることを理由に撮影を制限していることについて。
- 植物防疫所(農林水産省)「English Export Guide」 — 生きた植物を日本から輸出する際に必要な検査と植物検疫証明書の手続き、および輸入先の国が定める制限について。
- 「大宮盆栽村」Wikipedia(英語版) — 1923年の関東大震災で被災した盆栽職人たちが1925年に大宮盆栽村を開いた経緯について。