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盆栽は完成しない

懸崖仕立ての五葉松

絵は、筆を置くと止まります。

彫刻も、鑿を置くと止まります。作品に署名がされた瞬間、それは動きを止めます。あとは、今日も明日も同じ姿でそこにあり続け、完成した日がその作品を語るときの基準点になります。

盆栽には、そういう日がありません。

生きているからです。生きているものに、決定稿はありません。

盆栽に完成はありません。あるのは、いまの姿だけです。

これは木についての情緒的な言い回しではありません。盆栽がどう育てられ、受け継がれてきたかという事実であり、真剣に受け止める価値があります。それによって、木を所有するということの意味が変わってくるからです。

木は、毎年変わる

盆栽は、季節がめぐるたびに姿を変えます。

春には芽が出ます。夏には葉が茂り、色を濃くします。秋には、樹種によって色が変わります。冬には、落葉樹は葉を落として立ち、常緑樹でさえ休みに入ります。

この動きは、一年のあいだにも起きていますし、一年を越えても続いています。昨日と今日を比べれば、その差はほとんどありません。枝が少し伸びた、葉が一枚増えた。日々の変化は、その程度のものです。

けれど、この小さな違いが、季節ごと、そして何十年と積み重なります。その積み重ねの一部は、意図的に作られるものでもあります。たとえば松の手入れでは、初夏から夏にかけて作家が芽切り(mekiri、英語では decandling と呼ばれる、その年に伸びた新芽=「ろうそく」を切り戻す作業)を行うことがあります。これによって木は二番芽を出し、年を経るごとに枝がより細かく分かれ、葉が短く整っていきます。これは、木に必要とされる日々の手入れ(teire、手入れ全般を指す語)のひとつにすぎず、一回ごとには取るに足らないものに見えます。それでも10年たてば、幹の太さも、枝の配りも、樹皮の表情も、まったく違うものになっています。

盆栽を見るとき、私たちはその瞬間の姿を見ています。でもその姿は、通過点にすぎません。完成した最終形ではなく、生き続けている木の、いまの一断面であり、次に見るときにはまた違う姿をしています。

樹の正面や根張り、ジンとシャリの見方を知っていると、この一断面により多くのものを読み取れるようになります。同時に、その読み方自体も暫定的なものだと気づかされます。今日読み取れる木は、来年見る木とは、もう少し違うものだからです。

人も、見続ける

木が変わり続けるなら、それを見る人間の仕事も終わりません。

枝を切り戻します。シルエットを整えます。葉に出る前の段階で、弱っていないかを確かめます。今の季節の作業が終わらないうちから、次の季節に向けた計画を立てます。

盆栽は、作家が作って手を離すものではありません。育て続け、見続けるものであり、木と作家のあいだの関係は、完結するのではなく続いていきます。展覧会のオープニングに相当するもの、その晩に「完成した」と宣言して次の作品に移る、というようなことは起こりません。

一鉢の盆栽の裏には、ある年に完了した仕事ではなく、何十年も続く観察と判断があります。水をやるか控えるか。今月針金をかけるか、それとも待つか。この枝をもう一季伸ばしてから運命を決めるか。今年はなにもしないと決めることさえ判断のひとつであり、それは木をよく観察したうえで、抑制こそが必要だとわかったときにだけ下せる判断です。

木に名前がつけられる——銘(mei、木の物語を認めて贈られる名)——のも、この続いていく関係のなかでのことです。名前は、完成した一枚の絵にタイトルがつくのとは違い、完成を記念するものではありません。続いていく物語に立てられた道標であり、木そのものが変わり続けるのにあわせて、実質的に更新されていきます。

世代に渡って、引き継がれる

日本の歴史ある盆栽園には、3代、4代、あるいはそれ以上にわたって、ひとつの家系や作家の系譜が引き継いできた盆栽が少なくありません。

一人の作家の生涯よりも、一鉢の木の時間のほうが長いことがよくあります。米国立樹木園の National Bonsai & Penjing Museum に所蔵されている「ヤマキパイン」はよく記録された例です。1625年から広島の山木家が5代にわたって育て、1945年の原爆投下を生き延び、1976年にアメリカへ贈られました。大宮盆栽村の歴史ある庭園のひとつ、蔓青園では、加藤家が19世紀からその園を守り続けています。これらは珍しい例外ではなく、真剣に手入れされてきた盆栽の歴史がたどる、ごくふつうの形に近いものです。

その長さがあるからこそ、作家は自分より下の世代に向けて木を育て、形をつくり、いずれ手渡します。仕事の目的は、自分が手にしているあいだに木を完成させることではありません。次の担い手がまた手を入れられる状態を保つことです。手を離すときが来ても、それは一区切りではなく、次の人がまだ運んでいける、まだ読み取れる、まだ形をつくっていける姿で残す、ということです。

日本に残る銘木盆栽の多くが、そうやって代を重ねてきました。日本盆栽協会が優れた盆栽として登録するように、ひとりの作家の名前が正式に記録されることもありますが、実際にはある程度の樹齢を持つ木は、何世代もの手によって育てられています。誰か一人が完成させたのではありません。いま見ている姿は、途切れずに続いた手入れの連なりが残したものであり、それぞれの担い手は、前の世代が決めた枠のなかで働き、次の世代のために余地を残してきました。

完成しないから、時間がある

完成しないことは、欠点ではありません。

家族も、仕事も、体も、心も、完成して止まるものではありません。続きます。変わります。ほぼ際限なく、手入れを必要とします。盆栽も同じであり、これは無理にこじつけた比喩というより、同じ事実が別の場所に現れているだけのことです。

もし盆栽が、ある日完成して、そこで止まるものだったら、そのあとに残るのは所有だけです——ただ持っているという状態。人と木のあいだに、それ以上のことは起きません。

でも盆栽は止まらないから、そこに時間が生まれます。時間が生まれるから、人と木のあいだに関係が生まれます。今日どう手入れをするか、来年どう育てるか、10年後にどんな景色になっているか。完成していないからこそ、そこに関わり続ける余地があります。 完成しないことは、欠けているということではありません。むしろ、そこに時間と関係が生まれる余白です。

結び

盆栽は、完成しません。作家は、そのことを知りながら、毎日その木を見続けます。今日の水やり、今日の観察、今日の小さな判断が、10年後の姿につながっていきます。

Azukariは、その続いていく時間を、記録という形で受け取ってもらう仕組みです。木は作家のもとで育ち続け、持ち主は、完成しない木が変わっていく過程を、季節ごとに受け取ります。

止まらない木を、止まらないまま見続けること。それが、盆栽と付き合うということです。

参考リンク

盆栽Azukari