
「型」とは、初心者を縛るための枠ではありません。何世代もの先人が磨き上げてきた答えを、ゼロから解き直さずに済むように手渡すためのものです。
型は檻ではなく、贈り物である
型を、できることを制限するルールの集まりだと誤解するのは簡単です。けれど、実際はその逆に近いと言えます。型とは、数え切れないほど多くの人が、数え切れないほど長い年月をかけて「実際にうまくいくやり方」を探し当て、それ以上のものが見つからなかった結果を、圧縮して残したものです。
剣道や合気道における「型」は、足の運び、腰の回転、刀や腕の軌道までを定めた、決まった一連の動作です。学ぶ人はこの流れを自分で発明するわけではありません。すでに何世紀分もの実戦の中で試され尽くしたものを、そのまま受け取るのです。茶道でも、釜の扱い方、袱紗(ふくさ)の畳み方、茶を茶碗にすくう所作は「点前(てまえ)」と呼ばれ、手首の角度に至るまで細かく定められています。初心者は、お茶そのものに触れるよりずっと前に、襖(ふすま)の開け方、畳の歩き方、正しいお辞儀の仕方から教わります。能の世界でも、演者は幼い頃から決まった構えや所作の体系の中で稽古を積み、その動きは何世代も前に定められた型に忠実にたどり着けるほど、精密に受け継がれています。
これは単なる保守主義ではありません。刀の握り方や、水の注ぎ方や、舞台の渡り方を、生涯をかけて最も効率のよい形に仕立て上げた人がすでに存在していて、新しく学ぶ人にもう一度その発見を何年もかけてやり直させる代わりに、型そのものがその発見を運んでくれるのです。型を学ぶことは、遠回りではありません。むしろ最短距離です。なぜなら、すでに誰かが解き終えた探索の、その先端から始められるからです。
型は固定されている。だからこそ、その中にいる人は固定されない
ここからが、実際に目にするまでは逆説のように聞こえる部分です。同じ型を10人の異なる人に与えると、10人の異なる個性が見えてくるのです。
剣道の型の手順は、演じる人によって変わりません。それでも、十分に見慣れた人であれば、演者ごとの違いを見分けることができます。違うことをしているからではなく、同じ決まった形式が、間合い、体重の乗せ方、呼吸、意図の違いを、他の方法では見えないところまで浮かび上がらせるからです。形のないルールは、個性が現れる場所を持ちません。精密で共有された型があるからこそ、個性はそこに現れる舞台を持ちます。誰もが同一の構造と照らし合わされるからこそ、ほんのわずかな真の違い――一瞬のためらい、わずかに異なる重心の置き方――が、まさにその人そのものとして、他の誰でもないその人として、はっきりと見えてくるのです。
型が個性を消すのではなく、個性を生み出すのはこのためです。制約は、ここでは個人の表現の敵ではありません。むしろ、個人の表現をはっきりと読み取れるようにするための条件なのです。
「型破り」と「型なし」は同じではない
型は、そこから離れることもできるものです。だからこそ、型を離れること――ルールを曲げ、型を超えて即興すること――を、型を学んだ次の段階だと考えたくなります。日本語には、これを表す二つの異なる言葉があり、その違いは正確です。
「型破り」とは、型を完全に自分のものにした上で、その熟達の内側から、あえて型を離れることを指します。「型なし」(形無し)とは、そもそも型を学んだことがなく、ただ好きなようにやっているだけの状態を指します。この二つは、遠目には似て見えるかもしれません――どちらも予想される型から外れているからです。けれど、片方は何年もの鍛錬の上に築かれたものであり、もう片方は何の上にも築かれていません。
この区別は、歌舞伎役者・十八代目中村勘三郎と強く結びついています。彼は歌舞伎の型から大きく外れた作品で知られていました。自身のスタイルを「型破り」だと言われた際、彼は次のように答えたと伝えられています。型があるからこそ型破りと呼べるのであって、型がなければ、それは型破りではなく、ただの「形無し」に過ぎない、と。この言葉はさらに遡り、勘三郎が耳にして自分のものとした、ある仏教者の言葉に由来するとも言われています。いずれにせよ、要点は変わりません。型を説得力を持って破るには、その前にまず型を完全に身につけている必要があるということです。
樹形という型――型を通して木を読む
盆栽の幹の形もまた、一つの「型」です。「模様木(もようぎ)」の様式は、育てる人がゼロから自由に発明する形ではありません。決まった構造――同じ向きに二度連続して曲がらないS字状の幹、それぞれの曲がりの外側から伸びる枝、幹が土に入る点の真上に収まる頂点――として定まっています。「懸崖(けんがい)」の様式も、それ自体の論理の中で同じように定まっており、幹全体が鉢の縁より下へと大きく傾いていきます。これらは、剣道の型と同じ意味での「型」です。受け継がれ、精密であり、そこで手を動かす作家一人ひとりが新たに発明するものではありません。

模様木に仕立てられた真柏。幹は、この様式に受け継がれたS字の曲線をたどっている。
そして、まさに型が固定されているからこそ、一本ごとの木の個性は隠れるのではなく、はっきりと見えてきます。二本の模様木の松が、まったく同じ構造上のルールに従っていても、それでもなお、紛れもなく別の木として見えるのは――一方の曲がりがより強く、一方の曲線がより急で、一方の輪郭がより簡潔であるからであり――共有された型があるからこそ、訓練された目は、この一本の幹が、他のどの一本とも違う点を、まさにそこに見て取ることができるのです。模様木の型を知る鑑賞者が見ているのは、ありふれた形ではありません。その形を通して、その一本の木がたどってきた具体的な経緯と、一人の作家の手つきを読み取っているのです。それは、茶室や剣道の道場での型が、演じる人を隠すのではなく、映し出すのとまったく同じことです。
樹形の読み方については、「守破離という考え」、「盆栽の見方」、「日本はなぜ左右対称を避けるのか」もあわせてお読みください。
参考リンク
- Wikipedia「Kata」 — 日本の武道や、歌舞伎・茶道を含む伝統芸能における、受け継がれた固定形式としての「型」の概要。
- Wikipedia「Japanese tea ceremony」 — 厳密に定められた手順としての「点前」の説明と、生徒がお茶そのものを扱う前に固定された型を学ぶ順序について。
- 愛新館京都「型があるから型破り、型が無ければ形無し」 — 十八代目中村勘三郎による「型破り」と「形無し」の区別についての解説。
- Bonsai Society of Greater Cincinnati「Informal Upright "moyogi" or "tachiki"」 — 模様木様式のS字幹と外側への枝配置についての説明。