
ヴェルサイユ宮殿の庭園に立つと、南北と東西のふたつの軸、敷地を貫く「一本の幾何学的な線」のような大遠近軸、左右に鏡合わせの花壇、遠くの一点に収束していく並木道——この場所を支配する論理が、一目で伝わってきます。ところが京都の桂離宮を歩いても、そうした特権的な一点はどこにも見当たりません。
左右対称の形とは、変化が止まった形のことです。そして日本のデザインは、長らく変化が止まっていない形を好んできました。
ヴェルサイユは問いを閉じ、桂離宮は問いを開いたままにする
アンドレ・ル・ノートルは、ヴェルサイユの庭園をただひとつの視点から読み解けるように設計しました。刈り込まれた生垣と均された砂利を通じて、人間の理性が自然に秩序を与え、それを保持できるという主張を形にしたのです。設計のすべてがその主張を支えています。軸は固定され、花壇は左右で呼応し合い、目は片側の均衡を測った時点で、もう片側をすでに知っています。
桂離宮には、そうした主張がありません。この庭園は池を中心に据えた「回遊式(かいゆうしき)」の造りで、池の岸辺はあえて不揃いに設計され、小さな入り江や見せかけの奥行きへと曲がりくねっています。茶屋はそれぞれ互いに見えない位置に配され、園路はわざと折れ曲がることで、新しい景色がひとつ前の景色の延長ではなく、小さな発見として現れるように仕組まれています。この庭園は、歩きながら、時間をかけて、順を追って体験されるように作られており、一度にすべてを把握できる場所は存在しません。
ヴェルサイユは「秩序をどう可視化するか」を問い、桂離宮は「すでに知っている場所が、なおも新しい何かを差し出し続けるにはどうすればよいか」を問うているのです。
完成した形とは、止まった形のこと
左右対称の構成は、それ自体の完成を宣言します。軸が定まり、両側が互いに呼応し終えれば、目はバランスを確認し、それで満足し、次へと移ります。それこそが対称という手法の目的そのものです。記念碑や条約書、国家の式典の間にふさわしい視覚言語であり、固定され、正しく、変化しないものであることを意味づける形式です。
日本の美意識には、この対極にある性質を指す言葉があります。「不均整(ふきんせい)」です。美学者・久松真一が禅の影響を受けた芸術の根底にあるとした七つの原理のひとつに数えられ、「簡素(かんそ)」や「自然(しぜん)」と並びます。対称が形を閉じるのに対し、不均整は形を開いたままにします。中心を外した構成はまだ解決していない状態にあり、その未解決さこそが、目を引きつけ続ける理由です。まだ解くべき関係があり、まだ追うべき緊張がある。傾いた木、完全な円ではない碗、視界の先で曲がっていく園路——そのどれもが、製図用のコンパスの物差しでは「未完成」に見えるものほど、実は生き生きとしていることを示しています。コンパスが「未完成」と呼ぶものに、目はくり返し戻っていくのです。
崩れた線もなお、捨てた形に応え続けている
この不均整への嗜好は、もうひとつの、より要求の多い秩序です。比率によってなお統御されながらも、鏡合わせの形という近道を拒みます。「崩し(くずし)」という言葉は、まさにこの手法を言い当てています。ある形を「崩す」とは、期待される対称からわざと少しずらしながら、それでいて全体としては破綻させずにまとめ上げることです。書家がより自由でくずれた書体で文字を書くとき、その人は文字の定型的な構造に対して崩しを行っています。その結果に緊張感が生まれるのは、見る者が「本来の整った形からどれだけ逸脱しているか」を感じ取れるからにほかなりません。不均整が生き生きと見えるのは、画面の外のどこかから、暗黙の均衡がなおも押し返してきているときだけなのです。
生け花は、この同じ本能を「天地人(てんちじん)」という古典的な構成によって形式化しています。伝統的な生花(しょうか)の様式では、三本の枝がそれぞれ異なる長さに切りそろえられます。天がもっとも長く、人はその半分ほどの長さ、地はさらに短く。そして、どの二本も同じ方向を向いたり同じ高さになったりしないよう、異なる角度で配されます。偶数はそもそも避けられます。この生け方は、一本一本の枝によって対称を拒むように組み立てられており、出来上がった構成は、三つの不揃いな部分のあいだに目に見える緊張感を保ちます。それぞれが目を異なる方向へ引きながら、互いを静止へと均衡させることはないのです。
正面は立つ場所を示すだけで、均衡を保証しない
盆栽の幹にも、同じ論理が息づいています。ほとんどすべての古典的な樹形には、はっきりとした「正面(しょうめん)」が定められています。これは、幹の最良の線と根の最良の広がりを見せるために作家が選んだ、その木を眺めるべきただひとつの角度です。正面は単に、見る者がどこに立つべきかへの答えにすぎません。視界の両側が一致するという主張ではないのです。
盆栽でもっとも一般的な「模様木(もようぎ)」の様式では、幹はまっすぐにも、左右対称にもならず、いくつもの曲がりを重ねながら立ち上ります。それぞれの曲がりは、下の曲がりに応えながらも、それを繰り返すことはありません。ちょうど、本当にリズムのある文章がメトロノームのような単調な拍に落ち込まないのと同じです。「懸崖(けんがい)」様式では、幹は垂直であることそのものを捨て、鉢のふちより下へと落ち込みます。まるで崖の上を吹き抜けた強風の記憶に引かれるかのように、木の重みと動きのすべてが片側に託されます。どちらの様式も鏡合わせを差し出しません。差し出されるのは、目が追いかけていける一本の線であり、一つの曲がりが次の曲がりを予感させ、木そのものは百年を経ていても、その形はなお目に見えて動き続けているのです。
問うべきなのは、両側が一致しているかどうかではありません。画面の外のどこかから、暗黙の均衡がなお不均整を押し返しているかどうかです。その押し返す力こそが、なお生きて動いている形と、ただ崩れただけの形を分けます。桂離宮の池の岸辺、切られた一本の菊の茎、松の幹の曲線——木は、記念碑とは違い、生きることが終わるということが決してないのです。
盆栽の樹形の見方については、「盆栽の見方」、「盆栽は小さな木ではない」、「盆栽は完成しない」もあわせてお読みください。
参考リンク
- ヴェルサイユ宮殿公式「Gardens and Groves」 — アンドレ・ル・ノートルによる、軸線に基づく幾何学的で左右対称なヴェルサイユ庭園設計についての公式解説。
- 日本政府観光局(JNTO)公式サイト「Katsura Imperial Villa」 — 桂離宮の池を中心とした回遊式庭園と、移動とともに景色が変化する構成についての公式紹介ページ。
- Presentation Zen「7 Japanese Aesthetic Principles to Change Your Thinking」 — 美学者・久松真一が示した禅美学の七則(不均整=ふきんせいを含む)の解説。
- Wikisource「Japanese Flower Arrangement」第4章 — 生け花における「天地人」の古典的な構成方法。三本の枝を不揃いの長さと角度で配する規則についての記述。