
大宮盆栽村とともに育った施設のひとつ、大宮盆栽美術館の庭園を歩く来館者たち。Photo by TypeZero, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons — Source
さいたま市の北部にある大宮盆栽村は、観光客向けの商店街や美術館街ではありません。盆栽を育てるためだけに、盆栽職人自身の手で開かれた、百年の歴史を持つ町です。今も日本の盆栽文化の中心地であり続けています。
震災をきっかけとした移住から始まり、自分たちで定めた規約を持つ自治の集落へと育ち、20世紀のあいだに軒数を減らし、開村百年を迎えたいまは次の百年をどうつなぐかを探しています。その百年を、順に見ていきます。
震災が生んだ町
1923年より前、東京の本郷・団子坂周辺には、盆栽を専門に扱う職人たちが集まっていました。同年9月の関東大震災はこの一帯を壊滅させ、もともと煙や人口密集、狭くなっていく土地に悩まされていた盆栽業者たちに、決定的な打撃を与えました。数名の職人が、より広く、水や空気の清らかな土地を求めて、東京の北へ目を向け始めます。
彼らが移り住んだのは、当時の北足立郡大砂土村(おおさとむら)にあたる土地でした。1925年3月の開村は、数名の先駆的な職人たちによるものとされ、なかでも開村を主導し、のちに盆栽村組合の初代組合長となった清水利太郎(号:瀞庵)と、いまも村に残る創業当時からの盆栽園「蔓青園」を開いた加藤留吉の名がよく知られています。彼らとその後に続いた職人たちは、村に住む者のための規約を定めました。盆栽を10鉢以上持つこと、庭を人々に開放すること、隣の盆栽に影を落とさないよう二階建ての家を建てないこと、垣根は塀ではなく生け垣にすること。つまり、開村した最初の年から、外から見られることを前提に設計された盆栽の町だったのです。
商いの街ではなく、職人の共同体だった

いまも村で営業を続ける6園のひとつ、芙蓉園。通路の両側に棚が並び、その奥に園主の住まいがある。Photo by TypeZero, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons — Source
その後の数年で、さらに多くの盆栽園がこの地に加わりました。1925年ごろから1930年ごろにかけて、村はおよそ30軒の盆栽園を数えるまでに育ち、1928年には住民たちが盆栽村組合を結成し、共同で村を運営するようになります。ここは普通の意味での商業地ではなく、それぞれの屋号のもとで木を育てる、働く盆栽園の集まりでした。彼らを結びつけていたのは、この土地が何のためにあるのかという共通の理解です。
加藤留吉が営んだ盆栽園「蔓青園」は、1946年、息子の加藤三郎に引き継がれました。加藤三郎は幼い頃から父のもとで修業を積み、のちに20世紀の盆栽界を代表する人物のひとりとなります。日本盆栽協会の中心的な存在となり、世界盆栽友好連盟の設立にも関わり、数十年後には第1回世界盆栽大会の開催にも携わりました。蔓青園は、いまも村に残る創業当時からの盆栽園のひとつであり、加藤家の名前は、開村の年から国際的な広がりを見せた時代まで、この村の歴史を貫いています。
地名は残り、園の数は減った

盆栽町の道。道端に藤樹園の看板が立つ。Photo by 京浜にけ, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons — Source
1957年、この地区は大宮・土手宿・土呂・西本郷といった周辺の町から切り離され、「盆栽町」という独自の町名を与えられました。日本でも例のない町名だと言われています。2001年、大宮市が近隣の市町と合併してさいたま市が誕生した際も、盆栽町という地名はそのまま引き継がれました。
村はその後、拡大に転じることはありませんでした。かつて30軒を超えたと伝わる盆栽園は、いまは九霞園、清香園、藤樹園、芙蓉園、蔓青園、松雪園の6軒です。さいたま市は、その主な理由として、園主の高齢化と後継者不足を挙げています。これは、日本の伝統工芸の多くに共通する後継者という課題そのものです。2025年3月、村は開村百周年を迎えました。市はそれ以降、若手の盆栽師が中心となって市内外で大宮盆栽をPRする取り組みや、市内で生まれた子どもの家庭にミニ盆栽を贈る事業など、次の百年へつなげるための施策を続けています。
盆栽園と並んで育ってきたのが、2010年に村の隣接地に開館した大宮盆栽美術館です。同館自身の説明によれば、盆栽だけをテーマにした世界初の公立美術館だといいます。館内には、経歴の確かな木も収蔵されており、樹齢およそ450年と伝わる五葉松「日暮し」もそのひとつです。あわせて、この村がどのようにして生まれたのかを物語る歴史・民俗資料も展示されています。
世界が訪れる場所
大宮は、東京都心から電車でおよそ30分。日帰りで訪れられる近さでありながら、着けばまったく違う空気を感じられる場所です。このアクセスの良さと、6軒の盆栽園に凝縮された専門性の高さが、大宮盆栽村を国際的な盆栽コミュニティの拠点にしてきました。1989年には第1回世界盆栽大会を開催し、32か国からおよそ1,200人が参加したと伝わります。2017年には第8回大会が開かれ、会期を通じて40か国以上からおよそ12万人が訪れたと報じられています。
海外から訪れる愛好家の多くは、すでに日本国風盆栽展を目当てに来日している人たちです。日本で最も歴史があり格式の高いこの展覧会は、毎年2月に上野で開催されています。彼らの多くにとって、国風盆栽展は旅程の出発点にすぎません。次に向かうのが大宮盆栽村です。ここでは、舞台に飾られた木ではなく、棚に置かれたままの木を見ることができ、育てている職人と直接言葉を交わすこともできます。
開かれたままの村
大宮盆栽村について、百年を経てもなお変わらずに残っている規約があります。それは、いちばん最初に定められた「庭を開放する」という規約です。百年たったいまも、この開村時の決定が、村のあり方を形づくっています。ここは展示のためのショールームではなく、働く盆栽園です。それでも創業当初から、園主たちは外から人が入り、木を見ることを受け入れてきました。ひとりが育てている木でも、多くの人に見られ、ある意味では分かち合われる。その考え方を、この村は百年前から実地でやってきました。
これは、日本の盆栽文化に古くからある「預かり」という考え方に近いものです。木を世話することと、木を所有することを、別々の人が担う責任として分けて考える発想です。Azukariという名前も、この考え方から取られています。木は日本にとどまり、専門の作家のもとで育ち続け、持ち主はどこにいても、季節ごとの記録を通じてその木の時間に加わります。大宮盆栽村は、1925年からずっと、これと似たことを静かに続けてきました。この道を生業とする人たちが何十年もかけて育てた木が、木と訪ねてくる人のあいだに壁を置かないと決めて設計された庭に、いまも並んでいます。
参考リンク
- 大宮盆栽美術館「About Omiya Bonsai Village」 — 1925年に自治的な共同体として開村したこと、1930年ごろの最盛期にはおよそ30軒の盆栽園があったことを伝える公式解説。
- Omiya Bonsai「History」 — 1923年の震災による移住、1925年の開村、開村時の規約について伝える公式の村の歴史ページ。
- Omiya Bonsai「Gardens」 — 現在村内で公開されている6つの盆栽園の一覧。
- Japan Travel(JNTO)「Omiya Bonsai Village」 — 1989年・2017年の世界盆栽大会など、村の国際的な認知度について。
- Wikipedia「Omiya Bonsai Village」 — 1957年の「盆栽町」という町名の制定、2001年のさいたま市への編入など、地区の行政上の歴史について。
- さいたま市、PR TIMES経由「大宮盆栽村開村100周年記念クラウドファンディング」 — 30軒を超えた盆栽園が6軒まで減少した経緯(園主の高齢化・後継者不足)と、2025年の開村百周年に向けた市の取り組みについて。