
NHK放送文化研究所が2019年に実施した調査では、日本人回答者の36%が「信仰している宗教がある」と答え、62%が「ない」と答えた。1953年から5年ごとに続く統計数理研究所の「日本人の国民性調査」でも、「宗教を信仰していない」と答える割合は7割を超えている。ところが同じ人々に別の問いを向けると、数字はほぼ裏返る。國學院大學神道文化学部名誉教授の井上順孝氏は、hatsumode(初詣、その年初めての神社仏閣への参拝)を行う人の割合をおよそ7割と見積もり、その大半は初詣を宗教的な行為だとは感じていない、と述べている。
この二つの数字は矛盾していない。一方は「信仰を持っているか」を尋ねる問いへの答えであり、もう一方は「何をしているか」を尋ねる問いへの答えである。日本では、この二つが同時に成り立つ状態がずっと続いてきた。
この巡り合わせは毎年繰り返され、誰もそれを例外として扱わない。正月には神社が人で埋まり、Obon(お盆、先祖の霊を迎える夏の行事)には家族が先祖の墓へ戻り、葬儀の多くは今も仏式で営まれる。そのどれも、行っている本人たちにとっては、普段は否定している信仰にふと立ち返っているようには映らない。それは、日本での一年がただそういう形をしている、というだけのことだ。
同じ人々が、二つの違う問いに答えている
このずれは矛盾というより、物差しの不一致に近い。shukyo(宗教)というカテゴリーについて尋ねる調査は、加入する組織であり同意する教義であるものを尋ねている。日本の宗教研究者たちは以前から、この問い方自体が、宗教的な生活と世俗的な生活を分けるという、アブラハムの宗教群に由来する発想を持ち込んでいると指摘してきた。日本自身の歴史は、その線を同じ場所には引いてこなかった。その枠組みのまま「宗教を持っていますか」と尋ねれば、教義の有無で生活を組み立ててこなかった国は、1月に何をしていようと「いいえ」と大きな声で答えることになる。
実践は、選ぶ呼び名より先を行く
井上氏は、まさにこのずれを長年研究してきた。あるインタビューで氏は、調査が想定する意味での「無宗教」と正確に呼べる日本人はせいぜい2割だろうと見積もっている。ただし氏自身、この数字には注意書きを添えている。正確な統計は存在しないため、これは長年の調査を踏まえた氏自身の感覚値であって、誰かが数えた集計ではない、と。残りのおよそ8割は、氏が「弱い」「無自覚な」宗教性と呼ぶものを抱えている。行いの中には現れているのに、申請書には書かれない宗教性だ。氏が挙げる最も分かりやすい例が初詣そのものである。氏の見積もりではおよそ7割が参拝しており、その大半はそれを特別なことだと感じていない。行為は広く共有されているが、それを宗教と呼ぶことはまれだ。
暦は、信仰を求めないことで習わしを生かし続ける
信仰ではなく実践という枠組みに切り替えると、一年は矛盾どころか、途切れない連続として見えてくる。初詣は一年を神社で開く。setsubun(節分、季節の変わり目を告げる2月初めの行事)は豆をまいて厄を払う。ohigan(お彼岸、春分と秋分の年2回行われる仏教行事)とobonは、家族を先祖の墓へと連れ戻す。shichi-go-san(七五三、3歳・5歳・7歳の子どもの成長を祝う通過儀礼)では、晴れ着姿の子どもたちが神社に参る。20世紀に取り入れられたクリスマスも、今では同じ暦の中で家族の行事として定着し、それより古い行事を何一つ押しのけていない。
これらの行事のどれ一つとして、参加者に教義への同意を求めてはいない。求められているのは、その場に居ることだけだ。日本の宗教研究では、この層はしばしば「minzoku shukyo」(民俗宗教、民間に伝わる宗教的な実践)と呼ばれる。「神道」や「仏教」という、外から見る人がまず手にする形式的な区分よりも前からあり、今もそれらと並んで生き続けている習わしの層である。神道と仏教という二つの伝統自体も、長らく寺社の境内や家庭の祭壇を共有してきた。shinbutsu-shugo(神仏習合、神道と仏教が融合しながら実践されてきた歴史)と呼ばれるこの状態のもとでは、一つの家庭が神棚(かみだな、神道の神々を祀る家庭内の小さな祭壇)を日々の無事のために置き、仏壇(ぶつだん、先祖を祀る家庭内の祭壇)で家族の記憶を大切にすることに、何の違和感も生じない。それぞれの習わしは別々の役割を担っている――季節を区切ること、特定の先祖を敬うこと、子どもに楽しみな行事を用意すること――そのどれもが、家庭にどちらか一方を選ばせることを求めてはいない。
神社が求めるのは注意であって、見えないものへの判定ではない
習わしが信仰を求めていないのなら、何を求めているのか。それは、注意を向けることに近い。古い杉の木立の下や、注連縄が結ばれた岩のそばに立つとき、多くの参拝者は神の実在について何かを判定しているわけではない。ただ、そこが外の通りとは違う場所であること――静かで、整えられていて、小さな会釈と賽銭箱への小銭を差し出すに値する場所であることを、感じ取っている。
神社の森、山、古い木――そのどれもが「kami」(神、自然の事物や特定の場所に宿るとされる神霊)の気配を帯びることができる。これは、神道が長く「kannagara」(惟神、神々の道に沿って生きること)と呼んできたものに近い。それは、同意すべき命題ではなく、ある場所やある瞬間を、他とは違う注意を向けるに値するものとして扱う姿勢であり、参拝者に受け入れを求める主張は付いていない。参拝者が神とは何かについて確固たる立場を持っている必要はない。理屈より先に感覚があり、多くの場合、話はそこで終わる。

東京の神社境内で手入れされている松。境内に植えられた木は、崇拝の対象としてではなく、社殿と同じように、静かな注意を払われながら、境内そのものの一部として大切にされている。
外からの区分は、この国が引いたことのない線を前提にしている
宗教的なアイデンティティが固定され、一つしか選べない社会――カトリックか、イスラム教徒か、無神論者か、そのどれかであって重なり合わない社会――から来た人にとって、これは日本の暮らしの中で最も戸惑う点になりやすい。戸惑いの原因は神社そのものではない。神社は歴史的建造物として、すんなり受け止められる。戸惑いが生まれるのは、正月にその神社で頭を下げていた人たちが、その1時間後には申請書の宗教欄に「なし」と、心から正直に書いている、という事実に気づいたときだ。
信仰を物差しとして脇に置くと、この戸惑いは消えていく。ある習わしを、その人が何を信じていると称するかではなく、繰り返す人々にとって何をしているかで判定すれば、62%という数字はもはや謎ではなくなる。それは、ケアが信仰より長く続く場所ならどこにでも現れる、ある現象の分かりやすい一例になる。宗教的な習わしを宗教的なアイデンティティから切り離すことによって、ほぼそのままの形で残してきた文化――誰でも自由に行うことができ、どんな委員会にも書き換えられず、教義としてではなく一年の形として、次の世代へ渡されていく。
ある場所や習わしに払われる、それを正当化する教義を必要としない注意――それこそが、日本庭園の砂紋を整え続けさせ、割れた茶碗を捨てずに直させ、一度も顔を合わせたことのない持ち主たちのもとで盆栽を百年にわたって育てさせてきた、同じ感覚だ。Azukariも、この同じ読み方の上に成り立っている。木は日本にとどまり、持ち主が一度も会うことのない作家の手で季節ごとに育てられ続け、その仕組みは信仰の表明を何一つ求めない。求められるのは、その木と、そこに注がれる手入れが、続けていくに値するという実感だけだ。無宗教だと、ラベルは言う。習わしは、そうは言っていない。この形で続けられる盆栽は、習わしの側で動いている。
こうした感覚については、「間とは何か」と「なぜ日本は左右対称を避けるのか」もあわせてお読みください。明治神宮 盆栽・水石大観展からの現地レポートでは、鎮守の森とそこに置かれた盆栽についても詳しく触れています。
参考リンク
- 統計数理研究所「日本人の国民性調査」 — 1953年から5年ごとに継続されている調査シリーズの概要ページ。日本人の価値観や宗教に対する意識の推移を追っている。
- 東洋経済オンライン「『日本人は無宗教』と信じる人が気づいてない真実」 — 統計数理研究所の2013年調査(信仰や信心を持たないと答えた人が7割超)と、2019年のNHK/ISSP調査(「信仰している宗教はない」が62%)を紹介し、「無宗教」というラベルが実際に何を捉えているのかを問い直す記事。
- J-STAGE/NHK放送文化研究所 小林利行「日本人の宗教的意識や行動はどう変わったか」(『放送研究と調査』第69巻第4号、2019年) — ISSP国際比較調査に基づき、宗教を持つ人の割合はおおむね横ばいの一方で、信仰心や実践の頻度は薄れてきていることを示した調査結果。
- マイナビキャリアリサーチLab 國學院大學神道文化学部名誉教授・井上順孝氏インタビュー — 正式な統計ではなく本人の感覚値と断った上で、井上氏が「無宗教」と呼べる日本人はせいぜい2割程度であり、初詣を行う人はおよそ7割にのぼると述べたインタビュー。