ある年の12月、小林國雄氏の著書『盆栽も人も枯れるから面白い』を読んでいて、見たことのない言葉で手が止まった。景道(けいどう)。小林氏が営む春花園は、東京の東の端、江戸川区にある。塀の内側に1,000本を超える盆栽が立つ、国内で最も完成された盆栽園と言われる場所で、私は長いあいだ「自分にはまだ早い、人生のずっと後で行く場所」と決めて近づかずにいた。読み終えた翌日、園に電話をかけた。去年の正月明けから、正式な生徒として通っている。景道の会――この一つの技法だけを学ぶ、園の中のグループのメンバーでもある。
景道が鍛えるのは、木の見方そのものではない。木の周りに何を置き、何を置かないかという判断と、その判断を自分でどう読み返すかという力である。

床の間に倣って組まれた飾り。掛軸を背に、卓の上に石が据えられ、あいだの余白がそのまま働いている。
飾りの語彙――鉢、卓、掛軸、添え――については、このサイトの別の記事ですでに扱った。それぞれの部材がどう組み合わさるかという文法も、別の記事にゆずる。景道が付け加えるのは、その文法の一段上にある主張だ。飾りを組み、組んだものを自分で読み返す。それ自体が一つの修練であり、一日で身につくものではなく、年単位で鍛えるものだ、という主張である。
見せ方を鍛えることが、鑑賞を修行に変える
日本庭園の美学を説明する文章の多くは、木や石そのものを主題にし、飾りを仕上げの一工程として扱う。景道は順序を逆にする。木は、その脇に置かれるもの、背後に掛けられるもの、そして意図的に空けられた余白まで含めた、一つの構成の一部分にすぎない。その構成にあるすべての要素は、そこにある理由を持たなければならない――働いていない言葉を許さない文章と同じように。実際の物を使い、実際の部屋で、これを繰り返し行うこと。それが鑑賞を、一度きりの好みの判断ではなく、修行に変える。鍛えられているのは飾りそのものより、飾る人間の目のほうだ。
盆栽と水石は、同じ風景を違う方法で凝縮する
盆栽は、この技法のうちすでによく知られた半分にあたる。木と鉢が一つの構成として組まれ、部屋に置けるほど小さいまま、広大な風景と年月の重みを感じさせる。小説家・川端康成は、1968年のノーベル文学賞受賞講演「美しい日本の私」で、まさにこの凝縮について語っている。日本庭園を突き詰めて凝縮すれば盆栽になり、乾いた形に凝縮すれば盆石になる、という趣旨の一節である。盆石(ぼんせき)は砂や石を組んで風景をつくる盆上の造形で、水石(すいせき)の近い親戚だが、同じものではない。盆石が材料を組んで景色をつくるのに対し、水石は一つの石の中にすでに出来上がった景色を見出す――見つけたままの石に山並みや滝を見出す、日本語で見立て(みたて)と呼ばれる見方で、別記事で詳しく扱った。川端が語っているのは、どちらの場合も大きさではなく密度の話だ。手を加えていない石が風景としてどう読まれるかは、もう一本の記事がより具体的に見ている。盆栽が風景を小さくするのに対し、水石はそもそも作られたことのない風景を見つけ出す。
余白は、木と同じだけ働いている
景道の飾りを読むために教わった物差しが一つある。何が加えられたかより先に、何が省かれたかを見ること。うまく組まれた飾りは、何かを足せば窮屈になり、何かを引けば意味そのものが変わってしまうような隔たりが生まれる、そう感じられなければならない。多くの飾りが失敗するのは、足りないからではなく、多すぎるからだ。もう一幅の掛軸、木がすでに語っていることを繰り返す添え物。この技法は、飾りつけというより編集に近い。
一年通って変わったこと
私はまだ入門したばかりの生徒だ。景道の会で教えを受けている先輩たちは、私が一年かけてやっていることを、何十年もかけて積み重ねてきた人たちだ。それでも、庭でも、ホテルのロビーでも、床の間の前を素通りできなくなった。何が木の脇に選ばれ、何が空けられたままにされているか、確かめずにはいられない。一年通って変わったのは、木を早く見る力ではなく、その周りをゆっくり見る力だった。
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参考リンク
- 春花園BONSAI美術館 — 小林國雄 — 筆者が景道の会の一員として通う、東京・江戸川区の盆栽園。
- 川端康成「美しい日本の私」— 1968年ノーベル文学賞受賞講演(英訳全文) — 庭園が盆栽・盆石へ凝縮されるという一節の出典。
- 日本水石協会 — 水石とは