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一鉢の中の四季

箒立ちに仕立てられ、金と朱に色づく欅の盆栽

Photo by Sage Ross, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons — Source

一鉢の落葉樹の盆栽は、一年をかけて育てるだけで、芽吹きから開花、紅葉、そして冬の裸木まで、木が知るすべての季節を一つの小さな鉢の中で見せてくれます。

理屈の上では、庭木でも同じことは起きています。けれど庭は季節の変化を一エーカーの広さに散らしてしまい、その全体を一度に見渡せる人はいません。盆栽は、同じ一年分のサイクルを、椅子に座ったまま丸ごと見渡せるほど小さな一本の幹の上に置きます。木の大きさそのものよりも、この「凝縮」こそが立ち止まって考える価値のある部分です。

一本の幹に宿る四つの瞬間

日本語には、落葉樹がたどる一つひとつの段階に、それぞれ別の言葉が用意されています。それぞれの瞬間が、それぞれの流儀で見守られてきたからです。一年は芽吹き(めぶき、葉の新芽が開くこと)から始まります。花を楽しむ樹種では、続いて開花(かいか、花が開くこと)が訪れます。紅葉(こうよう、葉が赤・朱・金へと色づくこと)は一年でもう一つの頂点となり、落葉(らくよう、その年の葉が落ちること)で一年は締めくくられ、春まで幹と枝だけの姿があらわになります。

松や真柏のような松柏盆栽は、この間ずっと緑を保ち、変化よりも樹形や幹肌そのものを愛でる対象です。これに対して、欅や楓のような落葉樹の盆栽は正反対の理由で愛されます。じっとしていないことこそが魅力なのです。上の写真にある欅は、米国国立盆栽・盆景博物館の「日本コレクション」の一本で、1895年から育成が続けられ、1976年に盆栽作家・糸川義文氏から同館に贈られました。細かい葉が密に茂る箒立ちの樹形は、まさにこの四つの段階がはっきりと読み取れる仕立てです。葉の一枚一枚ではなく、樹冠全体がまとまって色づき、まとまって落ちるからです。楓もまた同じように季節を映します。春に開く新芽は黄や朱を帯びることが多く、やがて夏には緑に落ち着き、そして秋には、ある定評ある栽培解説の言葉を借りれば「黄・朱・紅のあらゆる色合いに染まる、愛される紅葉」を見せたのち、冬に向けて再び裸木となります。

鉢のサイズに凝縮された一年

このどの段階も、急がせることはできません。木は前の年のうちに冬芽をつくり、気温と日照によって調整された、木自身の暦にしたがって芽を開きます。持ち主の予定表とは関係がありません。鉢が変えるのは季節の速さではなく、季節のスケールです。山の斜面であれば一面の木々に散らばっているはずの四つの段階が、盆栽では、持ち主がすでに細部まで知っている一本の幹の上に重ねられます。この枝、この傷、この独特の傾き。何年も自分の手で水をやってきた木に紅葉が訪れるのを見るのは、名前も知らない木々が並ぶ丘陵の紅葉を眺めるのとは、まったく違う経験です。鉢は季節そのものを縮めているのではなく、人と季節との距離を縮めているのです。

展示のために落葉樹を育てる作り手たちは、まさにこの仕組みに寄りかかっています。さいたま市大宮盆栽美術館は「季節の盆栽展 四季」という常設の展示企画を行っており、館内のコレクションをおよそ週替わりで入れ替えています。同館自身の解説によれば、11月の展示では「楓の葉は日に日に赤く色づき、秋が深まっていくことを教えてくれます」と紹介され、5月の展示では逆に「芽吹いたばかりの若葉」が初夏の光の中で開いていく様子が紹介されます。美術館は、いわば施設の規模でこれを行っているにすぎず、手入れの行き届いた一鉢の盆栽は、家庭という規模で同じことを一人の持ち主のためにすでに行っているのです。目の前にあるものが、いつでも季節の盛りにある、という状態です。

季節を手元に置く贅沢

日本には、この同じ経験を追いかけるための、別のやり方もあります。花見(はなみ、桜の開花を見に出かけること)と紅葉狩り(もみじがり、文字どおりには「紅葉を狩る」という意味で、色づいた葉を見に出かけること)は、どちらも決まった週に決まった場所へ人を送り出し、季節の頂点をとらえようとする習慣です。この点については、以前の記事「季節を待つという贅沢」でより詳しく書きました。「フラワー盆栽とは何か」で取り上げた花物・実もの盆栽は、この同じ頂点を、移動なしに味わえるようにしたものだと言えます。花のほうがベランダの木まで来てくれるのです。

四つの段階すべてを通して育てられる落葉樹の盆栽は、そのどちらからも、もう一歩先に進みます。一つの頂点を中心に組み立てられているのではなく、芽吹きから裸木まで、同じ幹の上、同じ家の同じ片隅で続いていく、ひと続きの物語として組み立てられているからです。この贅沢は、季節が移動なしに訪れること「だけ」にあるのではありません。旅行や電車の切符がたまたま捉えてくれた一週間だけでなく、物語のすべてに立ち会えることにあります。一つの花を待つことは、期待することの贅沢です。四つの段階すべてを通して木を持ち続けることは、続くことの贅沢なのです。

時間そのものに気づくための文化

これは盆栽だけの特殊な感覚ではありません。古典の日本は、自然の小さな移り変わりを、過ぎ去る前に気づこうとする同じ本能のまわりに、一つの美意識の語彙をまるごと築き上げてきました。花鳥風月(かちょうふうげつ、文字どおりには「花・鳥・風・月」)は、その古い呼び名です。この言葉は室町時代、世阿弥の能楽論にすでに現れており、そこから何世紀もかけて、こうしたはかない自然の細部に芸術と意味を見いだす営みそのものを指す言葉へと育っていきました。「季節を待つという贅沢」で紹介した、一年を最短で半月ほどの単位に分ける暦「二十四節気」も、同じ衝動から生まれています。西洋暦の大まかな四季が変わるのを待つのではなく、変化そのものを追うための道具を、わざわざ作り出した文化だということです。

芽吹き・開花・紅葉・落葉を通して育てられる一鉢の盆栽は、この同じ習慣が生きた姿をとった、小さな一例にすぎません。それは時間の経過を「説明する」のではなく、それを「演じて」見せます。誰にも動かせない日程で、持ち主が毎朝目にできる鉢の中で。

夏の緑の葉を茂らせた楓の盆栽

Photo by Ryan Somma, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons — Source

木の暦に合わせて生きる

実際のところ、落葉樹の盆栽は、持ち主の予定を決める側でもあります。以前の記事「盆栽と水やり」で書いた通り、水やりの量は季節ごとに変わり、生育期には多く、葉が落ちたあとは控えめになります。針金かけや樹形づくりは、新しい枝が固まりつつも暑さや寒さでまだ木に負担がかかっていない、短い時期を待って行われます。植え替えは、根がもっとも早く回復できる、春の芽吹き前のわずかな期間に合わせて行われます。これらはどれも思いつきで決められているのではなく、芽吹き・開花・紅葉・落葉が毎年同じ順序で訪れることに、そのまま従っているのです。

盆栽のこの部分だけは、何千キロという距離があっても取り除くことができません。そしてこの部分こそ、Azukariがその距離を越えて運ぼうとしているものです。木は日本にとどまり、同じ季節の暦にしたがって働く作家のもとで育てられ続けます。そして持ち主は、その暦を一つの記録として受け取ります。芽吹きのとき、開花のとき、紅葉が訪れるとき、そして冬の裸木のとき。一鉢の中の四季とは、落葉樹が実際に行っていることの描写であるだけでなく、どこに暮らしていても、持ち主がいまも見せてもらえるものについての描写でもあります。

参考リンク

  1. National Bonsai Foundation「Japanese Collection」 — 1895年から育成が続けられ、1976年に糸川義文氏から寄贈された欅(Zelkova serrata)についての収蔵記録。
  2. さいたま市大宮盆栽美術館「季節の盆栽展 四季」 — 館内のコレクションをおよそ週替わりで入れ替える常設展示についての公式解説。11月の楓や5月の芽吹きの展示紹介を含む。
  3. Bonsai Empire「Japanese Maple (Acer palmatum) care guide」 — 楓の一年の変化(春の葉色、夏の管理、秋の紅葉)についての栽培解説。
  4. Bonsai Empire「Overwintering Bonsai Trees」 — 温帯性・落葉性の盆栽が冬のあいだ屋外で正しく休眠する必要がある理由についての解説。
  5. Tokyo Weekender「Kachōfūgetsu: The Beauty of Nature」 — 花鳥風月の由来と意味について、室町時代の世阿弥の能楽論にまでさかのぼって解説する記事。
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