メニュー AZUKARI

八百万の神という感覚

深い舎利を持つ古木の真柏盆栽。重厚な陶製の鉢に根を張っている

古い日本の想像力の中で、神とは数えられる一人の存在ではありませんでした。数え切れないほど無数にいる存在でした。

数えきれないほどの神がいる

やおよろずのかみ(八百万の神、文字通りには「八百万の神」、意味は「数え切れないほど多くの神々」)という言葉は、すでに日本最古の史書『古事記』に登場します。そこでは、神々が天の安の河原に「八百万」集まったと記されています。八百万は、実際の数を示す言葉ではありません。江戸時代の国学者・本居宣長は『古事記伝』の中で、「八百万は、数の多き至極を云へり」と、単に数の極みを表す言葉として説明しました。神社本庁も今日、同じ考え方を平易な言葉で伝えています。神道の神々は海の神、山の神、風の神、農作を司る神、国土を開いた神など、あまりに多岐にわたるため、実際の総数ではなく「数え切れないほど多い」ことを示す数字に落ち着いた、というものです。

これがかみ(神、神道における神・精霊)を理解する第一歩です。神道には、神の数を確定させようとする試みも、唯一の頂点を持つ単一の序列に神々を並べようとする試みもありませんでした。新しい神は、いつでも認められ得るものでした。山にも宿り得る。とりわけ古い木にも宿り得る。大きな功績を残した人物も、死後に神となり得る。この枠組みが最初から開かれていたのは、それが神々の人口調査のようなものでは決してなかったからです。神聖なものはあらゆる場所に、誰も定数を決める必要のない形で行き渡っている——それを言い表す方法だったのです。

道具にも米粒にも神は宿る

その行き渡り方は、山や川よりもさらに身近な場所、家庭の中にまで及びました。

つくもがみ(付喪神、「古い道具に宿った精霊」)とは、傘や草履、琴、鉄瓶といった日用の道具が、長年使われるうちに独自の精霊を宿すという民間の言い伝えです。この考え方は、室町時代の絵巻物『付喪神絵巻』に記録されています。そこでは、百年を迎える前に捨てられた道具たちが、見捨てられたことを恨み、精霊となって人間に復讐するという物語が描かれています。この「百年」という数字も、八百万と同じく文字通りの意味ではなく、長く使われた物には愛着が宿るという感覚を、独自の意志を持つ存在として物語に仕立てたものです。

道具が変化した精霊たちを描いた、室町時代の絵巻

付喪神を描いた室町時代の絵巻。長年使われた道具が精霊を宿すと語られてきた。

同じ発想の、より穏やかな形が、今も子どもたちに語り継がれることわざの中に残っています。米一粒には七人の神様が宿る、というものです。語り手によって、水、土、風、太陽、虫、雲、そして育てた人の労苦の七つを指すとされますが、その一粒がそこに存在するために揃わなければならなかった、人と自然の双方にわたる条件の連鎖を表しています。数がぴったり七つかどうかより、そこに込められた考え方の習慣の方が重要です。食卓の上にも、工房の中にも、庭の中にも、目に見えない多くの寄与の積み重ねを経ずに辿り着くものは何一つない、という感覚です。

恵みと、その裏側が同居する

だからといって、かみは居心地のよい座敷童のような存在になったわけではありません。かみは豊作や順風をもたらす一方で、蔑ろにされ、怒らせれば、干ばつや疫病、災厄をもたらす存在でもありました。神社本庁自身の説明も、この点をはっきりと述べています。神々は、あまりに堂々として、あるいはあまりに不可思議で、簡単には説明のつかない自然物——聳え立つ山、古い岩、滝——に宿るとされ、単なる親しみではなく、畏れと感謝が入り混じった態度で向き合われてきました。

ここは立ち止まって考える価値があります。物に精霊が宿るという考え方を、ただ愛らしいものとして甘く見るのは簡単だからです。実際にはそれだけではありませんでした。八百万の神とともに生きるとは、無関心でいることそのものに代償が伴う存在とともに生きることでした。道具や井戸や木を疎かにしなかったのは、それが好きだったからというだけではありません。その関係を絶やせば、試したくない結果を招く——そう考えられていたからこそ、関係は保たれていたのです。

だから物を粗末にしない

その畏れと感謝の同居こそが、もったいない(勿体無い、「物の本来の価値を無駄にすることへの惜しみ」)という感覚の根にあります。この言葉には、暗黙の非難が込められています。まだ使えるものを捨てることは、単にお金を無駄にすることではなく、その物に対して負っている関係を裏切ることだ、という含みです。日本政府観光局は、同じ感覚が今も続く年中行事の中に息づいていることを紹介しています。針供養(はりくよう、折れた縫い針を弔う行事)は、例年2月に行われ、一年の仕事で折れたり曲がったりした針を、感謝の気持ちとともに柔らかい豆腐の中に休ませ、ただ捨てるのではなく弔います。同様の供養は筆や、長年使い込んだ他の道具についても行われており、いずれも同じ論理に従っています。長く忠実に働いた道具は、役目を終えたからといって単なるゴミにはならない。それは労をねぎらわれ、感謝され、小さな儀式とともに送り出されるものなのです。

盆栽は、この感覚を道具そのものの扱い方の中に、そのまま受け継いでいます。作家は、ひびの入った陶製の鉢を、深く考えることもなく買い替えたりはしません。剪定鋏やジンピンセットを、安いものが出てきたからといって使い捨てにできる消耗品として扱うこともありません。鉢は直され、道具は研がれ、油を差され、次の世代へと引き継がれます。針金は、一度の仕立てで捨てられるのではなく、巻き戻されて再び使われます。これは単なる倹約ではありません。長年働いてきた物には、敬うに値する何かが積み重なっている——木そのものと同じように。最も恵まれた場合、木は仕立てた作家よりも長く生き、鉢や道具ごと、次の手へと預けられていきます。この感覚のただ中に、Azukariはあります。木は日本で、季節ごとに手入れを受けながら育ち続け、その鉢も、その歴史も、買い替えられるのではなく次へと引き継がれていきます。

この話の続きとして、神社のご神木を扱った「木に神が宿る」と、この世界の見え方が一神教とどう違うのかを扱った「一神教と多神教では世界の見え方が違う」もあわせてお読みください。

参考リンク

  1. 神社本庁「神道とは」 — 八百万の神について、自然・生業・国土に関わる神道の神々の多様さと数の多さを説明する公式ページ。
  2. Wikipedia「Yaoyorozu no kami」 — 「数え切れないほど多い神」という意味と、『古事記』『日本書紀』における由来の概説。
  3. Wikipedia「Tsukumogami」 — 道具がおよそ百年の使用を経て精霊を宿すという伝承の歴史と、一次資料『付喪神絵巻』についての解説。
  4. 日本政府観光局「Mottainai: Japan's Culture of Mindful Consumption」 — もったいないの考え方と、修理・再利用の文化における表れを紹介する公式観光局ページ。
  5. Wikipedia「Hari-Kuyō」 — 針供養の行事内容、2月8日の実施時期、もったいないとの関連についての解説。
盆栽八百万の神神道付喪神もったいないAzukari