
ある文化がどんな「神」を思い描くかは、その文化が一本の木をどう見るかにまで影響します。日本が木を、ほとんど敬うような態度で扱ってきたことには、宗教的な理由があります。
唯一の正解がある世界と、無数の正解がある世界
「その宗教は、いくつの世界の見方を許容しているか」と問うと、出発点によってまったく違う答えが返ってきます。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など、西洋・中東・南アジアの多くの地域を形づくってきた一神教の伝統では、唯一の創造主がいて、宇宙の作者はただ一人であり、したがって世界を正しく理解するための最終的な視点もまた一つに定まります。その世界観の中で、自然は「作られたもの」です。自然はただ一人の作り手を指し示しており、原理的には、その基準に照らして正しく読み取ることも、誤って読み取ることもできる対象です。
日本古来の宗教である神道は、まったく違う前提から出発します。世界の外に立ち、世界を作った唯一の創造主という存在がいません。代わりにいるのは「神(かみ)」――一神教でいう「神」と直接は重ならない、数え切れないほど多くの霊的な存在です。それぞれの神は、特定の山、川、木、祖先、あるいは天候のような力の中に宿っています。神社本庁は、この点をはっきりと述べています。神道は「唯一絶対の創造神を認めない」宗教である、と。その世界観は、すべてを測る唯一の視点というより、それぞれの場所に根ざした無数の視点が、それぞれの場所で成り立っている、という感覚に近いものです。
これは些細な教義上の注釈ではありません。この出発点の違いが、二つの世界観における「自然とは何か」そのものを変えています。創造主が、自らの作ったものの外側に、その上に立つのに対して、神々は何かの外側に立ってはいません。山の中に、川の曲がり角に、古い木の中に、世界そのものの細部に織り込まれています。この違いこそが、本稿が出発したい地点です。というのも、この違いは、どちらの世界観を受け継いだ文化かによって、一本の木がまったく異なる扱われ方をしてきたことの、静かな理由でもあるからです。どちらの見方が優れているという話ではありません。世界と、そこに宿る聖なるものとの関係を、それぞれ違う形で描いているだけであり、それぞれが独自の深い芸術と倫理と信仰を育んできました。
自然は被造物か、それとも神そのものか
一神教的な枠組みでは、自然は「創造物」です。意図的な行為の産物であり、絵が画家から切り離されているのと同じように、作り手からは切り離された存在です。山は美しく、時に畏怖を誘うものであっても、神そのものとはカテゴリーとして区別されます。その枠組みの中で自然への畏敬は、たいてい、自然という作品「を通して」表現される、創造主への畏敬です。
神道においては、その距離そのものが消えます。神は、木のそばを漂いながら少し離れたところから見守っている霊ではありません。伝統的な理解においては、木そのもの、あるいは岩そのもの、滝そのものが、神の宿る場所そのものであり得ます。あるいは、「聖なる存在」と「自然物」という通常の境界線を引くこと自体に意味がないほど、両者は近しいものです。國學院大學の神道事典ポータルは、「神」という言葉が、祖先や創造神だけでなく、「植物、岩、鳥、獣、魚といった、生物も無生物も含む」ものに対しても使われる、と説明しています。神道におけるこの広がりを表す言葉が、yaoyorozu no kami(八百万の神、文字通りには「八百万の神々」を意味し、数え切れないほど多いことを表す慣用句)です。神性は一つの源に集中しているのではなく、物理世界のあらゆる肌理(きめ)の中に、薄く、しかしあまねく分布している、という感覚です(この言葉については、関連記事「八百万の神」でさらに詳しく取り上げています)。
どちらの見方も、自然が恵みであると同時に脅威でもあることを否定してはいません。神社本庁も率直に、「あらゆる生命に恵みを与える」太陽が、同時に大地を干上がらせ、干ばつや飢饉を引き起こすこともあると述べていますし、風や海の神は、恵みと同じくらい嵐をもたらします。違うのは、その脅威への向き合い方が、どこを向くかです。唯一の創造主を持つ伝統では、自然の向こう側、自然を統べる権威の方へ視線が向かう傾向があります。神道では、目の前にある特定の場所――その山、その川、目の前のその木――に宿る特定の神へと向き合う傾向があります。向き合う相手である神は、どこか別の場所に立ってはいないからです。ある意味で、まさにそこに立っているのです。
善悪の裁きより、調和を重んじる感覚
もう一つの違いは、それぞれの伝統が「過ち」をどう捉えるかにあります。罪を中心に据える伝統では、倫理はしばしば一種の帳簿として組み立てられます。行為は定められた律法に照らして裁かれ、その結果として、告白し、償うべき「罪」が生まれます。
神道の重心は、少し違うところにあります。定められた規範に照らして正しい行いと誤った行いを測る帳簿ではなく、「和(わ)」――調和と、その乱れに重心が置かれています。もっとも大切にされるのは、人と人との関係、そして人と、神々が宿るこの世界との関係が、釣り合いを保っているか、それとも崩れているか、ということです。過ちへの向き合い方も、それに応じて違ってきます。下される「判決」ではなく、「祓(はらえ)」――積み重なった穢れを取り除く儀礼を通じて、関係を元の状態に戻すことが目指されます。祭りの前に行われる祓いの儀式、手水舎での手洗い、神社の社殿そのものの定期的な造り替え。これらはすべて、同じ一つの感覚を指し示しています。過ちの記録を残すことよりも、関係を清らかに、釣り合いの取れた状態に保つことです。
このことは、自然が日々どう扱われるかにも直接関わってきます。もっとも重んじられる価値が、善悪の判決ではなく調和であるなら、木を無造作に切ること、庭に手を入れすぎること、景観をいたずらに乱すことは、規則への違反というより、関係の乱れとして受け止められます。だからこそ求められるのは、罰ではなく、慎みと修復です。「調和(ちょうわ)」は、人が他者とどう関わるかだけでなく、人が物理的な世界とどう関わるかにも当てはめられる、実践的な基準になっています。
着地点は、木にある
ここまでの話は、どちらかの宗教的な世界観がより正しい、あるいはより優れていると論じるためのものではありません。一神教の世界もまた、被造物である世界への感謝や配慮、それを守り伝えていく、長く豊かな伝統を築いてきました。本稿はそれに異を唱えるものではありません。ここで示したいのはただ、木が何を意味し得るかについての、具体的で実践的な違いです。
自然を「作られたもの」であり、何かに従属するものだと厳密に捉える見方の中では、木はどれほど美しく描かれようと、一つの資源です。一方、木そのものに神が宿り得る、あるいは季節を外れて木を切ることが、絶えず保たれるべき「和」を乱してしまう、という伝統の中では、木は所有物というより、むしろ対等な相手に近いものになります。日本が、一本の生きた木を何十年もかけて丹念に手入れするという芸術形式を、丸ごと一つ作り上げたのには、こうした背景が少なからず関わっています。盆栽の作家が「木が望んでいることに耳を傾ける」と語るとき、それが単なる詩的な比喩に聞こえないのも、そのためです。日本各地の神社では、樹齢を重ねた特定の木に「注連縄(しめなわ、神聖な状態を示すために張られるわらの縄)」が掛けられます。それは事実上、「この木はただの材木ではない」と告げる縄です。盆栽は、その同じ感覚を、小さな鉢の中に受け継いでいます。日本で盆栽が「単に所有するもの」としてはめったに語られない理由の一つも、ここにあります。唯一の遠い作者ではなく、無数の、その場その場に宿る神々からなる世界。この文化のもっとも古い宗教的な文法のようなものが、いまも、枝に添えられる手の動かし方を静かに形づくっています。
関連記事として、「木々に宿る神」、「八百万の神」、「盆栽と世界の文化」もあわせてお読みください。
参考リンク
- 神社本庁「神道とは」 — あらゆるものと場所に宿る神々への畏敬として神道を説明する公式ページ(英語版)。
- 神社本庁「神道とは―神」 — 「神道は唯一絶対の創造神を認めない」と明記し、雨・風・山・海・雷の神々と、自然が持つ恵みと脅威の両面について説明するページ(英語版)。
- 國學院大學 神道事典ポータル — 神道の用語・概念を扱う英語版の学術参照ポータル。神という言葉が植物・岩・動物にまで及ぶことを説明。
- Wikipedia「Yaoyorozu no Kami」 — 「八百万の神」という慣用句と、神道のアニミズム的世界観における役割についての一般的な参考情報(英語版)。