
去年の正月明けから、東京の東の端、江戸川区にある盆栽園に通っています。春花園BONSAI美術館 — 一つの塀の内側に1,000本を超える盆栽が立つ庭です。最初は見学者として、いまは正式に入門した生徒として通っています。通い始めて驚いたのは、木について学ぶことの多さではありませんでした(それも確かに多いのですが)。木の前に立った瞬間に、その日の残りがどれほど速く静かになるか、でした。塀の内側では、誰も私に判断を求めません。電話はポケットに入ったままです。平日を画面と締め切りの間で過ごす人間にとって、あの静けさの異様さこそが、最初の本当の授業でした。
盆栽の手入れは、心に何も求めません。勝ち負けを競う議論もなければ、返事を考える必要もない。今日どれだけ水をやるか、それだけです。その数分のあいだ、考えるべきことが、ほかに何もなくなります。
盆栽の手入れは、剪定の時期、水やりの決まり、樹種ごとの土の配合といった、技術の集まりとして語られることが多くあります。それは事実であり、間違ってはいません。けれど、同じ木の前に何年も立ち続けている人は、毎日の数分間を少し違うふうに語ります。片づけるべき作業としてではなく、その日のうちで、ただそこに居ることしか求められない、唯一の時間として。この記事は、その時間についての話です。それが心にどう働くのか、そして、時間などないと感じる日にこそ、なぜこの時間が効くのかを考えます。
作業が小さいのは、わざとである
植物に水をやるとき、決めることはほとんどありません。鉢を回して土の乾きを確かめるとき、そこに議論の余地はありません。盆栽の手入れは、意図的にこれくらい小さな作業です。一日に一度か二度、数分間、意見も知らせも持たない一つの生き物に向き合うだけ。この小ささは、測定できるほどの意味を持ちます。2011年、オランダの研究者たちが、市民農園の利用者にストレスのかかる課題をこなしてもらったあと、屋外での農作業か、屋内での読書のどちらかを30分間行ってもらいました。どちらもストレスホルモンであるコルチゾールを低下させましたが、農作業のほうが低下幅は明確に大きく、気分も、農作業をしたグループだけが完全に回復し、読書をしたグループは平均してむしろ悪化していました。別の日本の研究では、盆栽そのものに近いことが調べられています。リハビリ中の高齢の患者が、小さな鉢植えの檜を1分間ただ眺めただけで、「休息と消化」を担う副交感神経の活動が測定可能なかたちで高まり、何も見なかった対照群より「心地よい」「リラックスできる」と報告しました。小さな木を1分見るだけで、神経系はギアを変えるのです。毎日の盆栽の手入れは、この二つの実験をさらに地味にして、何年も繰り返すようなものです。
無心とは、空っぽの心ではなく、固まらない心である
このような小さな作業がもたらす状態を指す日本語があります。無心 — 文字どおり「心が無い」という言葉です。頭が空っぽになるという意味ではありません。一つの考えに固執することをやめた心を指します。剣術の師としても知られる禅僧・沢庵宗彭(たくあん そうほう)はこれを、「一所に凝り固まらない心」、状況に応じて自在に動き、一つの心配事に囚われない心だと説きました。無心は剣術や弓道でよく語られます。計画を追いかけたままの心は、動きが半瞬遅れるからです。けれど、刀は必要ありません。作業が十分に単純で、十分に繰り返されると、心はそれを語ることをやめ、ただ行うようになります。反論もせず、返事も求めない木は、それが起こるのに驚くほど適した場所です。春花園で私が繰り返し思い知るのは、まさにこれです。木の前に立ち続けていると、木について「考える」ことは案外すぐに尽きます。あとに残るのは、ただ見ることだけです。無心について何年も読んできましたが、これは達成するものではなく、作業が単純すぎて心が隠れる場所を失ったときに、残るものなのだと、通い始めてようやく分かりました。
木を育てることは、育てる人を鍛えることでもある
これは一度の作業では起こりません。10年、20年と育てられた木は、一度の長い集中によってではなく、それ自体では取るに足らないほど小さな時間が何千回と積み重なって手入れされています。日本の文化には、このように積み重ねる営みを指す言葉があります。修行です。武道や茶道から、以前の記事「禅は行うものである」で触れた禅寺の日々の作務まで幅広く使われ、庭を掃くことは座って行う瞑想と同じだけの修行とみなされます。盆栽の手入れも、この繰り返しを美化せずに求めます。ある一日の午後に手入れを極める、ということはありません。あるのは、葉の色や枝のしなりを目が少しずつ読めるようになっていく年月だけです。水やりという最も地味な作業について言われる「水やり三年」という古い言葉が、それを言い表しています。木は、せっかちさに報いるほど早くは変わりません。木が報いるのは、また戻ってくることに対してです。
ご自分で木を育てている方には、毎日のこの時間を測る正しい物差しが、ここから見えてきます。木に目に見える変化があったかで測らないこと — 一日単位では、何も変わらないからです。終わったとき、木と自分のどちらが穏やかになっているかで測ってください。
予定が詰まった日ほど、この時間が効く
仕事が忙しければ、これほどゆっくりとした習慣の余地などないと考えるのが自然かもしれません。研究が示すのは逆です。心理学者のレイチェル・カプランとスティーブン・カプランは、「指向性注意疲労」と呼ばれる状態を説明しました。画面、締め切り、判断、他人からの要求 — 現代の労働日を埋め尽くす、持続的で努力を要する集中から生まれる特有の疲労です。二人の注意回復理論は、この疲労からの回復には正反対の種類の注意、心に何の意図的な働きも求めない「ソフトな魅了」が必要だとします。葉が揺れるのを眺める。土を確かめる。新芽が昨日よりどれだけ伸びたかに気づく。指向性の注意に費やし尽くした一日にこそ、この穏やかな注意が応えます。私自身の予定表でも同じことが起きます — 園に行く時間を作るのが最も難しい週ほど、行ったときに最も効く週です。盆栽は、その前後にどれほど予定が詰まっていたかを気にしません。ただ、合間の数分間を求めるだけです。

何年も同じように手入れされてきた黒松。一度の劇的な時間ではなく、幾千もの、急がない小さな時間の積み重ねによって。
私の「無心の時間」がどこにあるか
正直に書いておきます。ここまで書いてきた「言葉のいらない時間」は、私の家のベランダでは起きていません。他人の庭で、自分のものではない木の前に立ち、これを生業として生きてきた人たちから学ぶ時間として起きています。この分業は妥協ではありません。日本の本格的な盆栽は昔からこう組織されてきました — 大切な木は専門家の庭で暮らし、その木に繋がる人間のほうが通うのです。Azukariは、同じかたちの上に作られています。木は日本に残り、作家の日々の手を受け続ける。持ち主は、たとえ9時間の時差の先にいても、その時間の記録を季節ごとに受け取る。水やり、鉢の向きの調整、ニュースには決してならない小さな手入れ。その時間は、今日も、何十年それを続けてきた人の手で守られています。この一年半、庭に通ってプロがその時間を守るのを見てきた人間として言えるのは、オーナーに届く記録は、実際にあった時間の写真だ、ということです。
参考リンク
- Gardening Promotes Neuroendocrine and Affective Restoration from Stress — Van Den Berg & Custers, Journal of Health Psychology (2011) — 農作業と読書を比較し、農作業のほうがコルチゾールの回復と気分の改善が大きかったことを示した実験研究。
- Physiological Effects of Viewing Bonsai in Elderly Patients Undergoing Rehabilitation — Song et al., International Journal of Environmental Research and Public Health (2018) — 盆栽を1分間眺めることで副交感神経活動が高まり、主観的なリラックス感が増したことを示した研究。
- No-mind — Wikipedia — 禅・武道における無心の概念、沢庵宗彭の教えを含む解説。
- Attention restoration theory — Wikipedia — カプランらによる指向性注意疲労と、注意の回復に関する理論のまとめ。
- 春花園BONSAI美術館 — 小林國雄 — 筆者が通う、東京・江戸川区の盆栽園。