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不完全な美しさ

右端がまだ影に沈んでいる、欠けていく途中の月

Photo by Msadler13, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons — 出典

完成したものには、もう先がありません。それこそが完成の限界です。日本人の目は昔から、枝や器や月が、まだどこかへ向かっている途中の瞬間を好んできました。

14世紀、朝廷に仕えたのち出家した吉田兼好は、ゆるやかにつながった随想集を書き残しました。今日「徒然草」(つれづれぐさ、"Essays in Idleness"の英題で知られる随筆)と呼ばれるこの作品は、1330年から1332年頃に成立したと伝わります。今も引かれるある段は、こう問いかけます——桜は満開のときだけ、月は満月のときだけを見るものだろうか、と。さらに兼好は踏み込みます。雨で月が隠れているのを恋しく思ったことのない人、部屋にこもって春が過ぎていくのに気づかなかった経験のない人は、何かを見逃していると。兼好は、しおれていく枝や散った花を「見所多けれ」(みどころおおけれ、「見るべきところが多い」ほどの意味)と書き、盛りの姿に劣らぬ価値があるとしています。彼に言わせれば、花が散り始めた途端に「もう見るところはない」と言うのは、無粋な人間だけなのです。

これは、廃墟が宮殿より美しいとか、朽ちることが無条件に尊いという主張ではありません。もっと限定的で、実用的な話です——完成の頂点に達したものは、それ以上あなたの注意を求めてこない。もう何も求めない。対して、まだ何かになりつつあるものは、見る者をその場に留まらせ続けます。

満月より欠けた月のほうが面白い

日本の秋の月見の習わし、月見(つきみ、旧暦で仲秋にあたる夜に月を愛でる行事)は、旧暦で仲秋の名月にあたる満月の夜を中心に営まれてきました。団子や栗、すすきを供える行事で、平安の宮中から庶民の暮らしまで、千年以上にわたって続けられています。ここで満月こそが主役だと思ってしまいがちですが、月見の文化は満ちることだけを特別扱いしてきたわけではありません。十三夜(じゅうさんや、旧暦九月十三日の月を愛でる、十五夜のおよそ一月後に行われるもう一つの月見)という夜があります。これはあえて満ちる前の月を選んで愛でる行事で、月がまだ満月ではなく、欠けを残していることそのものが愛でられてきました。十六夜(いざよい、満月の翌晩の月を指す言葉)という夜もあります。「いさよう」(ためらう、の意)という古語から来た名で、満月を過ぎたことで自分がまだ主役でいていいのか迷うように、月の出が少し遅れてためらいがちに昇ってくる様子から名付けられたと伝わります。

満ちていく途中の月は、約束です。欠けていく途中の月は、まだ書かれている途中の記憶です。ただ満月だけが、それ以上でも以下でもない、ただそこにあるだけの姿です。だからこそ何世紀もの和歌の中で、雲間に隠れかけた月や、欠けた月、半分だけの月のほうが、より丁寧に詠まれてきたのでしょう。完成に達したものには、もう語る続きがありません。それに満たないものには、まだ続きがあるのです。

未完成であることが、見る者の居場所を残す

同じ理屈は、夜空だけでなく、作り手の手元にも当てはまります。最後の一筆まで描き切られた絵。意味を余すところなく説明し尽くした一文。生じたすべての緊張を解決してしまう音楽。これらはどれも、ある意味で、見る者・聞く者を必要としなくなっています。完成させるべきことが何も残っていないので、他の誰かがそこに関わる余地も残っていません。

その手前で止められた仕事は、違う振る舞いをします。どちらへ伸びていくのかを示唆するだけで、まだ確定させない角度で残された枝。答えではなく問いで終わる物語。少しゆがませて挽かれた器は、目がその上で一点に落ち着かず、ずっと動き続けます。どの場合も、未完成であることは仕上げ損ねではありません。見る者を引き込み、想像させ、何度も呼び戻すための構造そのものです。完成はドアを閉じます。未完成はドアを開けたままにしておく。開いたドアは、閉じたドアよりも常に興味深いものです。まだ誰かがそこを通り抜けるかもしれないからです。

未完成のものが、完成したもの以上に人の記憶に長く留まりやすいのも、同じ理由からです。完成したものは、一度眺めて満足すれば、それで済ませられます。未完成のものは、共に暮らし、繰り返し立ち返り、思いを巡らせ続けるしかありません。そしてその終わらない関わりそのものが、完成した物には持ちえない一種の美しさなのです。

盆栽に完成がない理由

同じ理屈で言えば、盆栽はそもそも「たどり着かない」ように作られています。以前の記事「盆栽は完成しない」でも書いた通り、絵は筆を置いた瞬間に止まり、彫刻はノミを置いた瞬間に止まりますが、生きている木は生きている限り育ち続けます。つまり作家は、今の樹形を物語の終わりとして扱うことができません。毎年、枝は本来行き着けるところより少し手前で止められ、線は完成させられるのではなく示唆されるだけに留められます。木にはまだ来年があり、その次の年があり、そして自分の次の作家がいるからです。

これは侘び寂び(わびさび)の話とは別のものです。侘び寂びは、経年や使い込まれたものの美意識であり、別記事「侘び寂びとは何か」で扱っています。不完全であることの美しさは、古さや傷みそのものの話ではありません。満ちる手前の月、最終形に至る手前の枝——まだどこかへ向かう余地を残したものの前に立つことの心地よさの話です。何代もかけて手入れされ、完成したと署名されることのない盆栽は、この考え方に根と樹皮を与えたものにほかなりません。盆栽は、完成した作品として愛でられることを求めていません。季節ごとに、次に何になるのかを見守られることを求めているのです。

参考リンク

  1. 徒然草 第百三十七段(原文) — 桜や月を盛りの時だけ見るのではないと説く、該当段の原文。
  2. コロンビア大学 Asia for Educators「兼好法師の徒然草」 — 兼好の無常の美学についての学術的な概説。雨に隠れる月やしおれた花についての段も紹介されている。
  3. Google Arts & Culture(NHKエデュケーショナル協力)「月見(お月見)」 — 日本の秋の月見の風習の概説。前﨑信也氏(京都女子大学)とM. Rinne氏(京都国立博物館)が監修。
  4. nippon.com「月見――秋の名月を愛でる日本の伝統」 — 月見の歴史と季節の営みについての解説記事。
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