
日本庭園は、塀のところで終わりません。塀の外にある山を、まるで最初から庭の内側にあるかのように設計する知恵を、何百年も前に身につけていました。しかも、その山を所有することなく。
その技法には名前があります。「借景(しゃっけい)」――庭の境界の外にある風景を、庭そのものの構図に取り込む技法です。日本の造園思想の中でも、もっとも古く、もっとも規律だった発想のひとつであり、その根底には奇妙な前提があります。庭にとって最も重要な要素が、庭が所有するものの中にはない、という前提です。
庭の外の山まで庭にする
多くの造園の伝統は、境界を「装飾すべき事実」として扱います。塀にはつる棚を這わせ、生け垣は刈り込み、視線はそこで止まるものとされます。借景は、その前提そのものを拒みます。庭の本当の縁は、視線が止まるところにこそある――そう考え、その縁を、垣根の外へ、道の向こうへ、町の外へ、そして所有者が権利証を持つことなど決してない山にまで、押し広げてしまいます。
京都の天龍寺では、これは比喩ではありません。曹源池庭園は、寺の敷地からはるか外にある嵐山と亀山が、池の向こう側で庭園の構図を完成させるように組み立てられています。天龍寺自身の説明も、まさにこの点を述べています。この庭園は「借景」を用いており、「近くの山々を庭に取り込むことで、奥行きの感覚を与えている」といいます。あの山々は、どこも寺の所有物ではありません。所有物でないにもかかわらず、その見え方のすべてが、寺の設計の一部になっています。
この伝統の中で庭を設計する者は、植物を配置しているのではありません。すでに存在しているものに対して、額縁を設計しているのです。
所有せずに取り込む知恵
借景を、いわゆる「借りる」という普通の意味に近いものだと誤解するのはたやすいことです。まるで庭が、隣家から砂糖をひとさじ借りるように、こっそり誰かの眺めを利用しているだけだ、というふうに。だが、それは少し違います。この技法のもっと古い日本語の呼び名が、その違いをはっきりさせてくれます。
「借景」という言葉が定着する前、この技法は「生け捕り(いけどり、"生きたまま捕らえること"の意)」と呼ばれていました。借景という発想が文章として初めて現れる17世紀の中国の造園書『園冶(えんや)』、そしてそこから日本に伝わった造園の系譜によれば、「生け捕り」という言い方は、「ここから山が見える」よりも強い主張をしています。山そのものが、生きたまま、まるごと、手を加えられることなく、庭の構図の中に捕らえられている、という主張です。所有されるのではありません。動かされるのでもありません。ただ取り込まれる――鷹匠が鷹を生け捕りにし、その後また空へ放つのに近い形で。
ここに、この技法が課す規律があります。借景をつくり出すために、何かを建てたり、植えたり、買い足したりしてはなりません。山は、もとからそこになければなりません。設計者の仕事のすべては、手前――池の縁、木立の並び、生け垣の高さ――を整えることに尽きます。それによって、見る人の視線は、気づかれることなく、庭自身の土から、庭が決して触れることのない斜面へと歩かされていきます。天龍寺における借景の記録は、鎌倉時代(1185〜1333年)にまでさかのぼり、嵐山の山並みを取り込む発想は、「借景」という言葉そのものが使われるようになるよりずっと前から、すでにこの庭園設計の一部でした。この技法がもっとも広く用いられたのは室町時代(1338〜1573年)の禅寺の庭園で、江戸時代(1603〜1868年)まで受け継がれていきますが、その条件は常に同じでした。風景は構図の中に組み込まれるのであって、決して所有されるのではありません。
境界を消す設計
借景の実際の技術は、その大部分が生け垣と塀と視線の技術です。庭の境界に、何を見せ、何を隠すかを、意図的に管理する仕事です。
京都北部の円通寺は、その仕組みがもっともはっきりと見て取れる場所のひとつです。四十ほどの石を配した苔の広がる庭園は、江戸時代初期、後水尾上皇が営んだ離宮の跡地に造られました。京都市の公式観光サイトも、刈り込まれた生け垣と本堂の柱を手前に配することで比叡山を眺めに取り込む借景庭園として、この庭を紹介しています。この生け垣は、単なる装飾の余白ではありません。低すぎず高すぎず、注意深く調整されています。低く抑えることで、比叡山のなだらかな稜線が庭自体の輪郭の延長として読めるようにし、同時に、間にある道路や住宅、現代的な屋根の連なりを隠すだけの高さは保っています。刈り方が違えば、同じ比叡山も、単に塀の向こうにある風景に戻ってしまいます。この刈り方だからこそ、山は庭自身の遠い縁になります。
境界というものが人工的に作られていることへのこの敏感さは、借景がいかに壊れやすい技法であるかということでもあります。借景の山は、庭とその峰との間に何も立ち上がらない限りにおいてしか、借景であり続けられません。京都は、円通寺のような庭園の周辺で、建物の高さや屋根の意匠を制限してきた時期があります。理由はまさにこれです。額縁を取り払えば、同じ山が、庭を構図に引き込むもののない、ただの山に戻ってしまいます。この技法が成し遂げていることのすべては、計画性を欠いたわずか数メートルの建築によって、覆されてしまいます。
天龍寺と円通寺に共通しているのは、ひとつの設計の本能です。「庭の内側」と「庭の外側」を分ける線は、築くべき塀ではなく、注意深い段階を踏んで少しずつ溶かし、しまいには視線がその境界を見つけられなくなるようにする、そういうものだという本能です。
鉢の中に風景を借りる盆栽
盆栽は、まさにこの本能を、内側へと折りたたんだものです。庭は、塀の向こうのどこかに実在する山を借ります。盆栽は、どこにも実在しない風景――海沿いの断崖、高山の尾根、何十年もの風に削られた森の縁――を借り、それを、幅わずか数センチの鉢に収まった一本の木のまわりに、築かずして、見る人に補わせます。
よく仕立てられた「懸崖(けんがい、"崖にぶら下がる"の意で、幹が鉢の縁より下に垂れ下がる樹形)」を見てみてください。鉢そのものは、ほとんど意識にのぼらなくなります。目を引きつけるのは、木が暗示する崖のほうです。幹の垂れ下がりは岩肌の落下として読まれ、鉢の縁は、木がそこからぶら下がっている崖の端として読まれます。もはや器としては見えません。誰も、その崖を築いてはいません。それが存在するのはただ、幹の角度と、先端に向かって間引かれた枝ぶりが、それを借り取ってきたからにほかなりません。刈り込まれた生け垣が、寺の庭に山の稜線を借りてくるのと、同じやり方で。
これは、借景がひとつの鉢の中に持ち込んだ、もっとも深い教えです。風景のもっとも説得力のある部分は、しばしば、誰も築いていない部分だということです。庭の設計者は、実在する山が庭に属して見えるように生け垣を整えます。盆栽の作家は、想像上の山や森や海岸が木に属して見えるように、幹と枝ぶりを整えます。どちらも、その風景を築いたわけではありません。どちらも、見る人の目がそれを見つけ出せるように、何年もかけて訓練してきただけです。あとは何も告げられなくても、見る人が残りを補ってくれるほど、精緻に整えられています。
盆栽が鉢の中に風景を描く仕組みについては「盆栽は、小さい木ではない。」で、それを完成させる見る側の想像力については「見立てという遊び」で詳しく書いています。
参考リンク
- 天龍寺「境内案内」 — 曹源池庭園が「借景」によって近くの山々を構図に取り込んでいることについての、天龍寺自身による説明。
- Wikipedia「Borrowed scenery」 — 借景という発想が中国の造園書『園冶』に由来すること、天龍寺における借景が鎌倉時代にまでさかのぼること、室町・江戸期の庭園に広まっていった経緯についての解説。
- 京都市公式 京都観光Navi「圓通寺」 — 円通寺が生け垣を通じて比叡山を借景に取り込んでいること、江戸時代初期の創建についての、京都市観光当局による紹介。
- Bowdoin College「Japanese Gardens — Elements: Borrowed Scenery」 — 借景を設計原理として概観した学術的解説と、山に囲まれた京都の地形がその自然な舞台となった背景について。